咸臨丸出港の碑

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浦賀行政センター 📞046-841-4155
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横須賀風物100選
嘉永6年(1853)6月3日、米国水師提督ペリーが黒船四隻を率いて浦賀沖に現れました。我が国は、長崎を外国への門戸としておりましたが、それが江戸の近くに現れたから大変です。「泰平の眠りをさます上喜撰 たった四はいで夜も眠れず」当時流行した狂歌が、世情の一端をよく物語っています。
七年後の安政7年(1860)幕府は、日米修好通商条約批准書交換のため、米軍鑑ボーハタン号で新見豊前守正興を代表とする使節団をワシントンへ送ることにしました。幕府は、万が一の事故に備えて、軍艦奉行摂津守喜毅を指揮者に、勝麟太郎以下九十余名の日本人乗組員で運航する咸臨丸を従わせることにしました。
1月13日、日本人の力で、初めて太平洋横断につくため、咸臨丸は、品川沖で錨をあげました。途中、横浜で難破した米測量船クーパー号の船員11名を乗せ、16日の夕刻、浦賀に入港しました。
それから2日、食料や燃料、その他の航海十尾作業が行われました。意気天をつく若者たちの乗せた咸臨丸は1月19日午後3時30分、浦賀港を出帆しました。不安に満ちた初めての経験と、荒天の中を、39日かけて、咸臨丸は無事サンフランシスコに入港しました。米国での大任を果たした咸臨丸が、故国の浦賀に帰港したのは、家々の空高く鯉のぼりが舞う万延元年(1860)5月5日でした。
この碑は、日米修好通商条約百年記念行事の一環として、咸臨丸太平洋横断を末永く後世に伝えるため、サンフランシスコに建てられた「咸臨丸入港の碑」と向かい合わせるように、ゆかりの深いこの地に建てられたものです。
なお、ここ愛宕山公園は、明治26年開園の市内最古の公園です。また、後方建つ招魂碑の主、中島三郎助は咸臨丸修理の任にあたったことがあります。

愛宕山公園の階段を登る

浦賀港入口を望む

基本情報
住所 神奈川県横須賀市西浦賀町1-23
TEL 浦賀行政センター 046-841-4155
料金 無料
駐車場 なし
アクセス 京急久里浜駅・浦賀駅より京急バス「紺屋町」下車徒歩約7分

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