走水神社 (はしりみずじんじゃ)

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走水神社の祭神は日本武尊と后弟橘媛命の二柱です。神社の創建された年代については亨保年間の火災で神社の記録や社宝が焼失してしまったのでわかりません。
伝説では、景行天皇の即位四十年(110年)、東夷征討の命を受けた日本武尊が、この走水から上総へ渡られるにあたり村民に「冠」を賜りましたので、冠を石櫃に納めて、その上に社殿を建て、日本武尊を祭ったことに始まると伝えています。日本武尊が渡海の際、海上が荒れ、今にも船が沈みそうになりました。海神の怒りであると考えられた弟橘媛は
さねさしがむのをぬにもゆるひの
ほなかにたちてとひしきみはも
の歌を残し、 日本武尊の変わって海に身を投じ、風波を鎮めました。弟橘媛命は、元旗山崎に橘神社として祭られていましたが、その地が軍用地に買収されたため明治42年、この神社に祭られました。
明治43年6月、弟橘媛命の歌碑が、東郷平八郎、乃木希典など七名士により、社殿の裏手に建てられました。
社殿の階段下の右側にある「舵の碑」は、弟橘媛命の崇高な行いにあやかり、航海の安全を願って国際婦人年(昭和50年)を機に、また、左側にある「包丁塚」は、走水の住人大伴黒主が、日本武尊に料理を献じて喜ばれたとの古事により、包丁への感謝と鳥獣魚介類の霊を慰めるため、昭和48年に建てられたものです。

手水舎

弟橘媛命の記念碑
この石碑は伊豆石で走水港に陸揚げされここ迄運んで建てたものです。昌子内親王は明治天皇の第六皇女で裏面に解説や建立年月日東郷平八郎イカ発起人の名前が刻まれています。

旧稲荷社
日本武尊の一行が東征成功の祈願を行ったと伝えられている。

針の碑

庖丁塚

河童の恩返し
走水神社の裏山にあった清流は、どんな日照りが続いても枯れることなく、そのにはたくさんの河童がおったそうな。
ところが、多くの河童の中には、いたずら者もおって、時々里におりてきては悪さをしたそうじゃ。
心優しい村人たちも、度重なる河童のいたずらに困り果てて、いつか折りがあったら懲らしめてやろうとおもったそうじゃ。
ところが、そんなある日、突然ゴーツと地鳴りがしたかと思うと、村中がユッサユッサと大きく揺れだし、村は大騒ぎになりよった。
その時、村の長が大声で叫んだと。「津波がくるぞ-。船を上げて神社の裏山に逃げろ-」村はまたまた大騒ぎになりよった。
この騒ぎを聞いた河童たちは集まって、いつも村人たちに迷惑をかけていたんだから「村人たちが困っている今、みんなで恩返しをしよう」と相談したそうな。
河童たちは、山の上から大きな石をゴロゴロ押して浜まで運び、村の海岸に沿って大きな堤防を作ったそうじゃ。
そして、河童たちは一匹残らず水の中に入り、岩を押さえて村を守ろうとしたんじゃと。
ところが、その日の津波は今までにない大きなものじゃった。
それでも河童たちが、岩を必死に押さえてくれたお陰で村は大きな被害にあわずにすんだそうな。
しかし、必死に村を守った河童は一匹残らず、津波の犠牲になってしまったそうじゃ。
村人たちは、命をかけて村を守ってくれた「いたずら河童」を思って涙を流し、感謝の心を忘れんように「村の守り神」になってもらおうと、神社の樟の根元に「河童の神禄」を祀ったそうじゃ。(走水古老のはなしより)

東京湾を望む

社務所

基本情報
住所 神奈川県横須賀市走水2-12
TEL 046-841-0179
営業時間
料金 無料
主な施設 休憩所 トイレ
駐車場 あり  
アクセス 京急馬堀海岸駅より京急バス「走水神社」下車徒歩約3分
横浜横須賀道路「佐原IC」より国道16号線方面へ約30分

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